今日も社会を欠席します。

重い鬱になったり、BPDと診断されたり、病院に通っても社会に出れなかった人のブログ

BPD(境界性パーソナリティ障害)と気分循環性障害(双極性障害)を抱えた無職(20代)の日々。母親は昨今で言う毒親、恋人とは共依存。

※BPDのメモ帳から一部記事を引っ越しました

無題

 精神疾患を自分の障害だと声を大にして言える人を少し羨ましく思うと同時にどこかで軽蔑している。
 偏見という苦難に身を置ける強さに嫉妬しているのかもしれないし、福祉という社会の檻の中でぬくぬくと守られながらも楽観的な人が多いことに腹が立つのかもしれない。


 一度はソーシャルワーカーを目指した人間がこんなことを言ってはいけないと道徳や倫理の中ではわかってはいる。でも本当に生真面目な人は福祉の手が届く外でゆっくり死んでいくのが現実なのだ。
 それに患者の得たい生活の質を大抵の精神科の医者は見抜くことができない。加えて医者の男女に対する価値観、捉え方でありとあらゆる患者の時間が変わる。男性患者には熱心な就労・復職支援を行う一方で女性患者には生活保護を勧めたりパートナーがいる場合には専業主婦であればいいと勧める医者がいる。


 本当は男性であろうと重い精神障害の場合は就労・復職以前に生活保護も検討すべきだろうし、女性だからといって安易に難治的な精神疾患だと判断して復職の希望を遮るようなことをしてはいけない。
 でも実際の精神科の病院には男女の性差や、患者の背景を使って患者の望まぬ方向へ運んでしまう医者がいる。


 精神科の医者が患者の健全な治療への目標を見抜けなければ、正しい福祉のサービスに辿り着くこともないのだ。
 声を大にして意思表示ができる人はある意味で強いし環境に恵まれている。私からしたら妬ましいが、その得られたものをフルに使って生き延びて欲しい。

幸せをしまう箱


 自分がいなければ全てがうまくいくと思わないようにと精神科などではよく言われてきた。あなたが今生きていることを家族が愛し支えていると。


 私はというと、誰かに愛されていても死のうとする。


 間違っていると思うしひどい裏切りをしている。最低だ。
 それでもそこに居場所があるようには思えないのだ。


 幸せを否定している訳ではない。
 幸せをその人と享受したり味わうことは出来る。それを素直に幸せだと表現することもできる。けれどその幸せを食べつすのは一瞬だ。自分の中にそれを一瞬で食べ尽くして消してしまう魔物がいる。


 自分がいなければ、その幸せはまた別の誰かとその人は分かち合えたはずなのだ。人並みにそれを大切にしまえる心の持ち主ならきっとそれを別のエネルギーに変えられただろう。私にはそれは勿体無いしそもそも意味がないものだ。


 枯れた花を嘆くより、底の抜けた花瓶に無限に水を注がれ続けることの方があまりにも苦しい。花瓶に底を貼り付けたとしても枯れた花はもどらない。

見えない境目で

 久しぶりにこのブログのこと思い出して読み返して見ると、今の私がグチャグチャになってわからなくなっていたことが自分の中の正しい言葉で綴られいてとても驚いた。
 あれから私はまた通院を辞めて、社会に溶けることなく社会から出来るだけ遠く離れた生き方を引きこもりながらしています。


 やりたいことは一つもありません。
 生きていく上での目標のようなものもありません。


 前よりよく笑うようにました。
 前より泣かなくなりました。


 死にたい感情は消えることはありませんでした。


 生きながらにして死んでいる人間がいるとしたらそれは自分のことなのではないかとよく考えます。自明のままに生きた結果なのかもしれません。
 生活が満たされても、人の心を満たすものはその人の中にあるものだけなのです。
 私は失敗しました。何に。それは自分をより良くしてあげることに。今からでも間に合うとか間に合わないとかではなく、その感情を失ってしまいました。


 そんなことを誰かに言えるわけもなく、理解されるわけもない。
 あなたはあなたが思うより幸せそうだと投げかけられて、はい。と答えることしかできない自分は今のこの気持ちすらいつか語らなくなると思う。


 恐い。とても恐い。