いつか止まる時
気づいたら1年ほど経っていました。
あれからやりたいことは何一つ終わらず、生きたいと思えるような力強さは失われていったように思えます。他人と関わることも極力避けながら生活しています。
体力も衰え、精神的にも疲弊が強まっている中「精神疾患が寛解したら結婚できるよ」と彼に言われました。「ロボトミーでもいい、別人になってしまってもいい、なんでもいいから治ったらいいね」と答えました。
その言葉に偽りは何一つなくて、それが悲しいぐらい自分を抉るのです。
医者の治療が頼りないことが多く薬も効果を見いだせるものは処方されません。治したくないからそこに向かわないのではなくて、もうそこまで辿り着いたとしても叶えたいことを叶えるだけの余力が私にはないのだと気付いてしまいました。
眠ろうとすると瞼の裏に居ないはずの者達がまるで待っていたかのように目の前に座っていて何だか待たれているようです。
ある時を境に、かなり念入りな自殺企図は止めてしまいました。
3度とも助かったからとも言えますし、失敗する度に死ぬよりも辛い目に遭っていました。それは医療的な処置のことではなくて、母親との関係や恋人との関係を盾にそれぞれ脅されていたからです。それは自殺をしないという治療の契約だったのかもしれません。
私はそれを守りさえいれば治るとどこか信じていたのかもしれません。
または死ねなかったからそれを恐ろしいと思ってしまったのかもしれません。本当に固い決意で死ぬことを考えれば今認知し得る恐怖など関係ないということを忘れていたように思います。
いつだか、ある知人にSNSで「本当に死にたければ死んでいるはず」と言われました。その場ではだらだらと生き延びることに意味があるように諭してしまいましたが、実際はその言葉何よりも正しいと今でも感じています。
死への渇望は結局どこまでも終わることなくぬるい幸福の中にうまく忍びこんでいます。いつかはそれを確実に選びとる私以外に信じられるものはないのかもしれません。